インド共和国(以下インド)は、近年その著しい経済成長によって世界から注目を集めている一方で、貧困ラインと言われる1日1.25ドル以下で生活する人々が依然として人口の約3分の1(約4億人)を占めており、貧富の格差に伴う多くの問題を抱えている。その問題の一つが教育である。インドでは今なお初等教育さえ満足に受けられない社会的に恵まれない子どもたちが多数存在するほか、多くの学校では十分な教育環境も整っていないのが実情である。 こうした状況の改善のために中央政府は、2009年「無償義務教育法に関する子どもの権利法(the Right of Children to Free and Compulsory Education ACT, 以下RTE法)」を成立させた[i]。この法律は、国(と州)が6歳から14歳までの子どもたちに無償の義務教育を提供する責任があることをインドで初めて定めたものである。一方でRTE法は、誰が社会的に恵まれない子どもたちに教育機会を提供するのか、具体的には、公(政府)がその全ての責任を負うのか、あるいは、私(政府の資金援助を受けていない私立学校、private unaided schools)も協力して教育機会を提供すべきなのかをめぐって論争が続いている。 そこで本稿では、RTE法に着目して、インドにおける公と私による教育機会の提供をめぐる論争についてまとめてみたい。 それでは、争点となっているRTE法の内容について見ることからはじめる。まずRTE法の12項(1)(g)には、私立学校が、近隣に住む社会的弱者層の子どものために、少なくとも定員の25%までの入学を認め、修了まで無償義務教育を提供することが述べられている。ただしその出費に関しては、子ども一人当たりの計算で国(州)が責任を負うとある(12項(2))。なぜ私立学校が教育機会を提供すべきという議論がでてくるのか。これまでインドの私立学校の多くは、比較的裕福な人々の子弟を受け入れ、英語を教授言語とする質の高い教育を提供してきた。そこでRTE法は、そもそも学校に通えないあるいは教育環境の整った学校に通うことができない社会的弱者層の子どもたちに、恵まれた教育環境にある私立学校に通うことのできる機会を提供することで、彼らに質の伴った教育を受けさせることを目指したのである。すなわち、政府の側からすれば、公だけでなく(児童生徒一人当たりの出費)、私も協力することで(質の良い教育の場の提供)、インドの貧富の格差に伴う教育問題を解決しようとする「インド版PPP(Public–Private Partnership: 公民連携)」とも言えるのが、同法の大きな柱の一つとなっている。 一方でこの12項をめぐっては、それを支持する側と反対する側で大きな対立構造を生んでいる[ii]。支持側は、実際問題として、公的セクターだけでは量だけでなく質も伴った教育を満足には提供できないため、私立学校を社会的弱者層の子どもたちに開放することは、彼らによりよい教育機会を提供するうえで、非常に有効な手段であると考えている。それに対して反対側は、国が遅れている公的セクターを強化することに十分な努力もせずに、私立学校に義務教育の責任を肩代わりさせることは、国がその責任を放棄していることと変わらないと批判している。また当事者である私立学校側も、同条項の取り消しを求めて政府にロビー活動を行ったり、裁判所に訴えたりしてきた。裁判では、憲法19条(1)(g)[iii]が民間の経営者に、政府の干渉なく自分たちの教育機関を運営するための自律性を与えるものであり、RTE法はその権利を侵害していると訴えていた[iv]。 以上をまとめると、政府は、私立学校がこれまでのように富裕層だけを相手に教育機会を提供するのではなく、そうした機会に恵まれない層にも、公と私が連携して教育を提供することが、インドの教育問題を解決するための重要な道筋と考えている。一方で私立学校などからすれば、恵まれない子どもたちへの教育機会の提供は、公立学校を整備することが先決であって、私立学校に彼らの入学を強いることは、誰を入学させるのかを決める権利を政府が奪うことであり、教育の自律性を侵害する重大な問題であると考えている。 このようにインドでは、公と私による教育機会の提供をめぐって論争が続いている。社会的に恵まれない子どもたちに対して、誰がどのようにして教育機会を提供するのかといった問題は、もちろんインドだけではなく、日本を含めて各国が抱える大きな問題の一つでもある。今回のインドの事例が、公と私による教育機会の提供を考えるうえでの何か少しでも参考になれば幸いである。


[i] RTE法について詳しくは、牛尾直行「インドにおける「無償義務教育に関する子どもの権利法(RTE2009)」と社会的弱者層の教育機会」『広島大学現代インド研究』Vol.2、2012、 63-74頁、を参照のこと。
[ii] 本文以下RTE法をめぐる論争については、Srivastava, P. and Noronha, C., “Institutional Framing of the Right to Education Act: Contestation, Controversy and Concessions, Economic and Political Weekly, 49(18), 2014, pp.51-58.を引用。
[iii] 憲法19条(1)(g)…全ての市民は、あらゆる専門職を業とする、あるいはあらゆる職業、商売、ビジネスをする権利を有する。
[iv] “Supreme Court upholds constitutional validity of RTE Act”,The Economic Times, April 12. 2012.(http://articles.economictimes.indiatimes.com/2012-04-12/news  /31331364_1_minority-institutions-rte-act-education-act、2015年1月14日取得) 最高裁判所は、同条項が憲法19条に違反しないとして私立学校側の訴えを退けている。